16歳のショパンの肖像

16歳のショパンの肖像エリザ・ジヴィウヴナ作。スケッチ。ファクシミリ。ワルシャワ博物館所蔵。

エリザ・ジヴィウヴナ  Eliza Radziwillownaは、アントニ・ラジヴィウ大公の上の娘です。

アントニ・ラジヴィウは、ポーランドの大公で、アマチュアながら玄人はだしの作曲家でもあり、チェロ奏者でもありました。

ヴィルノの領主の子に生まれ、ポーランド分割後の1815年ウィーン会議の結果、プロイセンに編入されたポズナン大公国の総督になりました。

ラジヴィウは著名な芸術のパトロンという面も持っていました。彼がベルリン、ポズナン、アントニンに所有していた宮殿では、ヨーロッパ各地から著名な音楽家たちが集まってくる国際的な音楽サロンでもありました。パガニーニ、ゲーテ、ベートーヴェンなどとともに、ショパンも客として迎えられています。

ベートーヴェンやメンデルスゾーンは自作曲を彼に献呈しています。ショパンも《ピアノ三重奏曲》Op.8をラジヴィウに献呈しています。
 

【ショパンとの関連】

*ショパンが1829年にラジヴィウ大公家に滞在した折、大公の二人の令嬢エリザとヴァンダの存在によりますます愉快なものになったことが、次のようなショパンの手紙から読みとれます。 「きわめて優しく上品、音楽的で心こまやかな(中略)二人のイヴ[楽園のアダムとイヴに擬す]がここにはいて、おかげで天国にいるようだ」

*エリザは音楽好きで、ショパンに対して《ポロネーズ ヘ短調》を弾いてくれるよう1日に何度も懇願しました。彼女はこの曲の変イ長調の〈トリオ〉が何よりお気に入りだったそうです。また、エリザはお気に召したこの曲の楽譜がほしいとせがみ、ショパンは親友のティトゥスに、一番早い郵便で送ってもらうように、念を入れて同じ手紙の中で二度も頼んでいます。

*エリザは絵も得意でショパンがラジヴィウ大公家に滞在中にショパンの肖像画を2枚描き残しています。この絵についてショパンは18291114日付ティトゥス宛の手紙で「僕も2度ほど画帳に登場させてもらったけど、人が言うにはなかなかどうして似ているらしい」と書いています。また、同じ手紙で「君は僕の肖像画を欲しがっていたね。もし、エリザ姫から1枚盗めたら君に送ろう」とも書いています。

ショパン少年時代の最良の友人

ヤン・ビャウォブウォツキ宛のショパンの手紙

18251224日、ジェラゾヴァ・ヴォーラにて。複製。オリジナルは第二次世界大戦中に、ワルシャワ古文書館から紛失。

ヤン・ビャウォブウォツキ Jan Bialoblocki1805-1827)は、ショパンの少年時代(1825年以降)の最良の親友で、ショパンより5歳年上の青年です。愛称はヤス、ヤシュ、ヤッシャ。

彼はショパンのあらゆる関心事、願望について告白することのできる最良の話し相手でした。ショパン家の寄宿生でもあり、ワルシャワ中学校では、後にショパンの姉ルドヴィカの夫となるイェンジェイェヴィチと同窓でした。

ヤンが脚に患いを得たままワルシャワを離れ、故郷ソコウォーヴォに帰ってからというもの、ショパンは身辺上の出来事を細大もらさず彼に報告して自分の気持ちを吐露し、自分が書いたマズルカや気に入ったミツキェヴィチの詩や、ウェーバーのオペラ『魔弾の射手』のアリアを送ったりしながら、矢のように手紙を書き送りました。

そして彼からの返事を心待ちにし、相手が自分ほど筆まめでなかったり、自分のように何でも打ち明けてくれないということで怒ったりもしました。

ビャウォブウォツキの病気は当時不治の病とされた骨の結核と推測されていますが、当時のショパンにはこの病気の重さが充分にはわかっていませんでした。

ショパンのビャウォブウォツキ宛の手紙の文面から彼が非常に礼儀正しい音楽好きな美少年であったことが伺えます。長く患った関節結核の悪化で22年の短い生涯を閉じました。

ビャウォブウォツキは少年時代のショパンにとって最良の友人でしたが、彼の死後はティトゥス・ヴォイチェホフスキがそれに代わる役割をはたすことになります。

 【ショパンとの関連】

*早逝したポーランドのピアニスト、アレクサンデル・レムビーリンスキーの演奏を聴いたショパンは、18251030日付、ビャウォブウォツキ宛手紙に「僕がいままで聴いた誰よりもうまくピアノを弾いた。今度のようにほんとうに完璧な演奏を一度も聴いたことのない僕たちのようなものに、これがどんな喜びだったか君は想像できるだろう。彼の速い、なめらかな、ふくらみのある演奏についてもっとくわしく書きたいのだが、1つだけ言っておくよ。彼の左手は右手と同じ強さに発達しているのだ。1人の人間で右と左と同じなんていうことは、まれに見ることだ。彼のすばらしい才能について書くには1ページ以上必要だが」と絶賛しています。

18251030日のビャウォブウォツキ宛のショパンの手紙の中で、ロッシーニのオペラ『セビリャの理髪師』を観に行ったこと、このオペラが大好きなことを書いています。

182511月のビャウォブウォツキ宛のショパンの手紙の中で、「『セビリャの理髪師』の主題による『ポロネーズ』(変ロ短調)を作曲した。友人達は大変喜んでくれている。明日石版印刷屋にひきわたすつもりでいる。」と書いていますが、この作品の楽譜は現存していません。

182511月にビャウォブウォツキに宛てた手紙に「ルドヴィカ[ショパンの姉]がすばらしいマズルカを書いた。ワルシャワがここ久しくこんな音楽で踊ったことのないようなものだ。彼女の最高峰だ、いやこの種のものの比べるものなきだ。はつらつとしていて、魅力的だ。一言でいえば、理想的なダンス曲で、しかも誇張なしに絶品である。君が帰って来たら弾いてあげるよ」と書いています。しかし、この作品の楽譜は確認されていません。

*ショパンは高校の最終学年の時、学校のミサでのオルガニストに任命され、得意になって182511月のビャウォブウォツキ宛の手紙で次のようにユーモアを交えて自慢しています。「僕は高校のオルガニストになったぞ(中略)どうじゃ、如何でござるかな?拙者もなかなかやるであろう!学校中で教区司祭様の次に偉いお方だぞ!」

1826515日付、ビャウォブウォツキ宛手紙に「レムビーリンスキー[早逝したポーランドのピアニスト]によく会う。23日前に会いに来てくれてぼくは大喜びだ」と書いています。

18266月のビャウォブウォツキ宛手紙に「レムビーリンスキーのワルツから数曲を送った。これは君に喜んでもらえるにちがいない。そのうちの23曲は、はじめはむずかしいかも知れないが、君の硬い指を動かし始めるにはちょうどよい。(中略)これらは君にふさわしいものだというのがわかると思う。君と同じく立派な曲だよ」と書いています。

*ビャウォブウォツキ宛のショパンの手紙の中で、フンメル、リース、カルクブレンナーが、当時のショパンの教材であったことを語っています。

182610月2日付ビャウォブウォツキ宛のショパンの手紙の中で「ブロジンスキ、ベントコフスキなどの講義や音楽に関係のある授業には出ている。」と書いています。

ブロジンスキは、ポーランドの詩人、批評家、文芸理論家でワルシャワ大学教授。ショパン家のサロンの常連の1人でした。

*病気療養のためビイスキュピックにいるビャウォブウォツキに、ショパンが手紙を出す際に、宛先住所を知らなかったので、ワルシャワにいたヤンの妹(または姉)、コンスタンスに手紙を託しました。

*ショパンの182718日付、ビャウォブウォツキ宛の手紙の中で、ポーランドの女流ピアニストであるマリア・シマノフスカの演奏会に行く予定だと、書いています。

*ショパンは182718日付のビャウォブウォツキ宛の手紙で、「ぼくの《マズルカ》[2つのマズルカ(ト長調)(変ロ長調)のうちの1(作品番号なし)1826年作で同年出版]を送る。君の知っている方だ。もう1つの方は今でなくあとで送る。こうしないと君に一時にあんまりたくさんの楽しみができてしまうからだ。これらの《マズルカ》はもう出版されている。」と書いています。

*ショパンは1827年3月14日付のヤン・ビャウォブウォツキ宛の手紙で、ヤンがもう死んでしまったという噂のことに触れ「君は今生きているのか?それとも生きていないのか?」と尋ねています。この時ヤンはまだ死んではいませんでしたが、それから間もなく死んでしまいました。ビャウォブウォツキの死(1827年末)はショパンの一番下の妹エミリアの死(1827410日)と同じ年でした。

1826515日付、ヤン・ビャウォブウォツキ宛手紙に、ポーランドの貴族で政治家のザモイスキのところに行って、一晩じゅうドゥウゴシュの発明したピアノとオルガンが合体したエオロパンタレオンという楽器について讃えあったと書いています。

*ショパンはヤン・ビャウォブウォツキから楽譜を送ってほしいと依頼されて、父ミコワイに頼んでグリュクスベルグという楽譜商に行って来てもらいました。ショパンの1826515日付、ヤン・ビャウォブウォツキ宛手紙によると、この楽譜商は1ヶ月前でないと予約は受け付けないとか、カタログは1つもないのでどういう楽譜を選んでよいのかわからない。一度に楽譜は23冊しか貸し出さない。貸出料は月1ターレルもする。などと批判的に書いています。

*ショパンの1826515日付、ヤン・ビャウォブウォツキ宛手紙に「23週間のうちに『魔弾の射手』が上演されるだろうと、ひどく噂になっている。これは大騒ぎになると思うよ。もちろん何べんも上演されるだろうが、まさにわれわれの歌劇団がウェーバーの有名作品を上演すること自体が大事件だ。しかし、ウェーバーが『魔弾の射手』で意図したねらいを考えると、あのドイツ的な主題、変わったロマンティシズム、特に凝った和音は、ロッシーニの軽いメロディーにならされたワルシャワの聴衆を考えると称賛をもって始まるだろうが、これは心の底からそう思っているのではなく、むしろ目利きのふりをしてのことにちがいない。というのはウェーバーはどこでも高尚ということになっているから。」と書いています。
*ヤン・ビャウォブウォツキ宛の手紙で、彼のために『魔弾の射手』のアリアを2曲買ったと書いています。

ショパンの一番下の妹

ショパン家には4人の子供がいましたが、男の子はショパン一人だけで、残り三人は女の子でした。

1807年生まれの長女ルドヴィカ、その下に1810年生まれの長男フリデリック・ショパンが続き、1811年生まれの次女イザベラ、そして、1812年生まれの末っ子、三女のエミリアという構成です。

今日は、ショパンの一番下の妹であるエミリアについての記事です。

エミリア・ショパン Emilia Chopin  18121120日~1827410日)

ショパン家の三女。ショパンの2歳ちがいの妹です。一般には1812年生まれとされていますが、1813年生まれという説もあります。

子供の頃から優れた芸術的な才能を発揮し、ポーランド語やフランス語で詩や戯曲、小喜劇を創作していて、フリデリック・ショパンに続き、ショパン家の2人目の神童として通っていました。

ショパンが通学していたワルシャワ高等学校の校長であるリンデ先生の家人のアルバムの中に、エミリアが創作した次のようなフランス語の詩が残っています。

 死ぬことは私の天命

 死は少しも怖くはないけれど

 怖いのは貴方の

 記憶の中で死んでしまうこと

またエミリアの最後の作品群の中には、次のような哲学的な一節もあります。

 この地上、人の定めの何と悲しいこと

 苦しんで、また隣人の苦しみを増すなどは!

1824年の冬にショパンとともに『勘違い、もしくは想像上の恋のたわむれ』という題の一幕物韻文喜劇を書き、他の姉妹と一緒に父の聖名祝日に演じたといわれています。ただ、残念ながらこの台本は紛失して残っていません。

また1825年には次女のイザベラとともに、ドイツの作家ザルツマンの教育的な話を翻訳するなど、彼女の文学上の才能には豊かな未来が約束されていましたが、残念ながら、1827年わずか14歳で結核のためにこの世を去りました。

エミリアの墓は、ワルシャワのポヴォンスキ墓地にあり、次のような碑銘が刻まれています。

 エミリア・ショパン

 生涯十四度目の

 春にうつろいぬ

 実を結ぶ

 美しき

 望みを咲かせし

 花の如く

【ショパンとの関連】

*ショパンはエミリアのことをエミルカという愛称で呼んで特に可愛がったそうです。

1826年の夏休みに、母親ユスティナとフリデリック、ルドヴィカ、エミリアの三人の子供達はマルチ医師の勧めで有名な鉱泉保養地であるライネルツに湯治へ行きました。

*ショパンが高等学校時代に文学や演劇などに興味を抱き、姉妹や寄宿生たちと一緒に文芸娯楽協会

という団体を作りました。ショパンが会長、エミリアが事務局長を務め、会員には学校や寄宿舎の友人たちが名を連ねていました。この会では会員11人が創作する文学作品を読み合う会を開いたり、家族や親友たちのお祝いごとや祭日など、いろいろな機会に上演活動(家庭劇場)を行ったりしていました。

1827312日付、ビャウォブウォツキという大親友に宛てた手紙の中でショパンはエミリアの病状について次のように書いています。「エミリアは先月から床についている。彼女はせきをしはじめ、そして喀血した。母は驚いてしまった。マルチ先生は血をとるよう命じた。1回、2回と取った。そして数えきれぬほど蛭、発泡膏、からし泥、トリカブトをはったが、どれもむだだった。この間ずっとなにも食べず、君が見ても彼女だとわからぬぐらいやせ細った。」

*ショパンの父ミコワイの最も古い友人で、タバコ工場につとめていた時代の仲間であり、次女イザベラの名付け親でもあったニコラス・ベニグが、エミリアが息をひきとった同じ月に死去しました。

また、少年時代のショパンの最良の親友であったヤン・ビャウォブウォツキもエミリアが亡くなった同じ年1827年の年末に死去しました。同じ年に、妹エミリア、父ミコワイの親友、ショパンの大親友の三人が亡くなるという大変な一年でした。

1827年4月10日にエミリアが他界して間もなく、ショパン一家はカジミエシュ宮そばの建物からチャプスキ宮の南別棟へ引っ越しました。ショパンは、エミリアの死の悲しみから立ち直り、弱りきった体力の回復につとめるため、この引っ越しの間、ジェヴァノフスキ一一族の親類であるズボインスキ伯爵の領地コヴァレヴォに休暇にでかけ、この田舎の地で自然と親しみました。

ショパンの髪の毛

これは、ワルシャワ博物館所蔵されているショパンの髪の毛です。
包みのうえにショパンの姉ルドヴィカによる鉛筆書きの注として「防腐処理済み、ショパンの毛髪」と記しています。
 
この写真からは、ショパンの髪の毛の色はブラウンがかった金髪のように見えます。防腐処理や経年変化による変色もあり得るのかも知れませんし、光の加減によっても色合いは違って見えますから、はたして生きていたときのショパンの髪の毛の色とまったく同じかどうかはわかりません。
 
パリ警察発行のショパンのパスポートによると、ショパンの髪の毛の色はブロンドとなっています。
 
また当時の人の証言では、ショパンの髪の色は、完全な金髪ではないけれども、かなり金髪に近いブラウンだった、と言われています。
 
ショパンの髪の毛は他の場所にも残されています。恋人だったジョルジュ・サンドのノアンの館の意外な場所にあります。ここでは、サンドが書いた台本にそって、ショパンが即興で伴奏をつけるという人形劇が披露されていました。この劇で使う人形は手作りで、人形本体はサンドの息子モーリスが、洋服はサンド本人が作りました。また、おもしろいことに、人形の頭髪は、当時この館を訪れていた多くのゲストたちの毛を少しずつ集めて作っていました。この中にショパンの髪の毛もあるそうです。

ショパンの最初の自筆譜

《ポロネーズ 変イ長調》 自筆譜のファクシミリ。
ワルシャワ音楽教会所蔵

1821年4月23日、ショパンのピアノ教師ジヴニーの聖名祝日のお祝いに11歳のショパンから献呈された作品です。

ショパンはこの曲の楽譜の表紙に、フランス語で次のように書き添えています。“A・ジヴニー氏に捧げる、その生徒フレデリック・ショパンが作曲した、ピアノ独奏用のポロネーズ。1821年4月23日、ワルシャワにて

今日知られているショパンの最初の自筆譜です。

ショパンが7歳の時に作曲した《ポロネーズ ト短調》と比較して、リズムはより複雑になり、装飾音も美しく、華麗になり、ヴィルトゥオーソ的な要素が加わってきています。

この曲は、ショパンの生前には出版されておらず、1902年に遺作として出版されています。

ショパン行きつけの楽譜店

ブジェジナ(ブジェジーナ/ブルゼジイナ) Brzezina は、ワルシャワのミョドーヴァ街にあるワルシャワ最大の音楽出版社兼書店で、ショパンがワルシャワに住んでいた頃よく通っていたお店です。1822年に創業し、32年にはセネヴァルド社(Sennewald)に引き継がれました。

ちなみに、この店のちょうど真向かいにショパンがよく行った「ジウルカ穴ぐら」というカフェがありました。

【ショパンとの関連】

*ショパンが作曲した曲の中で、1825年に『ロンド ハ短調op.1 』、1828年に『ロンド・ア・ラ・マズル ヘ長調op.5 』がブジェジナから出版されました。

《ロンド ハ短調》op.1 初版、ワルシャワ、A・ブジェジナ(1825年)

ブジェジナは、1825年6月2日の新聞に、この作品に関する広告を出しています。ショパンにとって記念すべき作品ですが、実のところ出版された楽譜には作品番号もなく、出版社の出版番号もなく印刷されてしまいました。作品番号が付いたのは、1835年のベルリンのシュレジンガー版からです。

1824810日に、ショパンが両親に宛てた手紙の中で、父ミコワイに、リース作曲の《ムーアのアリアによる4手のピアノのための変奏曲》の楽譜をブジェジナで買って、シャファルニャ(夏季休暇中にショパンが滞在していた親友の田舎)に持ってきてもらいたいと書いています。

*ショパンは高校時代によくこの店に通って、大量に輸入される新しいピアノ音楽の楽譜を手にとり、何時間も試し弾きをしていました。その頃、ショパンが一番惹かれていたのは、フンメル、フィールド、モシュレス、カルクブレンナーなどの曲だったそうです。

*ショパンはウィーン旅行で、刺激を受け、ワルシャワに戻ってくると、ブジェジナの店で時間を過ごすことが多くなりました。このお店には、ウィーンやライプツィヒの最新の楽譜カタログや実際の楽譜が置いてあり、サロンのようでもあって、新しい楽譜を手にしては、そこに置いてあるピアノで演奏することができたからです。

*ショパンのワルシャワにおける正式なデビュー演奏会およびその1週間後のコンサートの後、ショパンの人気ぶりをみて、ブジェジナの主人のゼーネワルトはショパンの肖像を石版画にして売ろうと企てましたが、ショパンは断りました。

このことについてショパンは1830年3月27日付で大親友のティトゥスに宛てた手紙の中で、「そんなことを許すわけにはゆかなかった。これはあまりにやり過ぎだろう。僕はレレヴェル[十一月蜂起指導者の一人となる歴史学者]の肖像画みたいに自分をバターを包むのに使ってもらいたくないからね」と述べています。レレヴェルの肖像画が、しばしばバターの包装紙代わりになっていたのを皮肉ってこう書いています。

ショパンの名付け親

フリデリック・F・スカルベクの肖像。ゴワコフスキ作。リトグラフの複製。

フリデリック・スカルベク Fryderyk Skarbek 19世紀初頭、ショパンの生まれ故郷であるジェラゾヴァ・ヴォーラの領主であったスカルベク家 の長男で、のちにショパンの名付け親となった人です。

ショパンの父ミコワイの生徒でもあり、18歳頃パリに留学しました。のちにすぐれた経済学の教 授(ワルシャワ大学)となり、歴史学者でもあり、さらには小説家、喜劇作家としてポーランド 文化史上に名を残す多芸多才の人物です。ショパンについての信頼すべき記録も書き残していま す。

フリデリック・スカルベクの父親であるスカルベク伯爵は、領主とはいえ、貧しい農村地帯にさ して広くもない土地しかなく、収入も限られ、ついには破産してしまいました。そして、債権者 の取り立てから逃れるため、膨大な借金を残したまま国外に逃亡してしまいます。

困り果てた母親のルドヴィカ・スカルベクは家名と財産を守るために懸命の努力をし、夫となん とか離婚し、4人の子供と一緒にジェラゾヴァ・ヴォーラで暮らしていました。

屋敷内には当時の習慣で、親戚の少し貧しい者たちが住みこみ、話し相手と家事手伝いを務めて いました。のちにショパンの母となるユスティナ・クシジャノフスカ嬢もその中の1人でした。

1802年からは子供達の住み込み家庭教師として、のちにショパンの父となるミコワイ・ショパン が雇われたのです。そして、この家で出会った二人はやがて結婚し、ショパンが誕生することに なります。

【ショパンとの関連】

*1810年4月23日に聖ロフ教会でショパンの洗礼式が行われた際、ショパンの名付け親(教父: ゴッドファーザー)となったのが、フリデリック・スカルベクで、自分の名フリデリックをショ パンに与えました。

*1817年、ショパンが7歳の時にはじめて作曲した、ト短調の『ポロネーズ』はフリデリック・ スカルベクの援助で、同年に自費出版されました。この曲はフリデリック・スカルベクの妹にあ たるヴィクトリア・スカルベクに献呈されています。

*1823年5月5日のショパンの聖名 祝日の祝いに、フリデリック・スカルベクはジャン・ニコラ・ブイイ著「若さの奨励」全2巻を 贈りました。この本は現在も残っていて、ワルシャワ博物館が所蔵しています。

チューリハウ(スレフフ)の伝説

チューリハウ(スレフフ)の伝説

1828年の秋、ショパンは父ミコワイの友人であり、 ショパン家のサロンの常連でもあったワルシャワ大学の動物学の教授に連れられて、ベルリン旅 行にでかけました。

その帰り道に、馬車が馬を換えるために立ち寄ったチューリハウ(他 にチューリヒハウ、チューリヒャウ、ツィリホフなどの呼称があります)という村(ポーランド 西部、ドイツ国境に程近い村で、現在のルブシュ県スレフフ町)で伝説的な出来事があったと伝 えられています。

このことについて最初に報告したのは、モーリス・カラソウスキで、18 77年に出版したショパンの伝記の中で記しています。以後どのショパンの伝記でも繰り返し述べ られていますが、この逸話についてショパンの 同世代の知人たちは誰一人として何も触れておらず、実話である証拠は見つかっていません。

この話とは次のようなものです。

チューリハウの村で、旅の馬車が馬を換える ために止まりました。新しい馬はまだ来ていなかったので、ショパンは他の旅人たちと一緒に馬 車を降り、村の見物に繰り出しました。

しかし、見るべきものはほとんどなく、駅へ戻っ たものの、馬が到着するまでまだしばらく時間がかかると言われ、時間をつぶすために、ある宿 屋に立ち寄りました。(この宿屋は1945年以後にこわされてしまったそうです)

すると、そ こにかなり良い状態のピアノが1台あるのを見つけ、これ幸いにと、ショパンはポーランドの歌 や踊りの主題をもとに即興をはじめました。

これを聴きつけ、しだいに旅人たちが周りをとりかこみ、ショパンはさらに弾き続け、その演奏 に誰もがすっかり心を奪われてしまいました。

突然、御者が馬の用意ができたと告げに来 ましたが、動こうとする者は一人もいません。ショパンは一刻も早く発ちたかったのですが、群 集から口々にもっと弾いて欲しいと頼まれ、やめさせてくれません。

さらに、駅長が気を 利かせ、1対の馬を増結して遅れを取り戻すから大丈夫だと保証までしてくれたので、ショパン は意を決し、火が燃えつくようなマズルカを演奏しました。

すると、それまで黙ってパイ プをふかしていた一人の老人が進み出てきて、自分はその土地のオルガン奏者だと告げ、ショパ ンにこう言いました。「私は音楽が少しはわかる 。本当のところ、もしモーツァルトが君の演奏を聴いたなら、『ブラヴォー!』と叫ぶだろうよ」 。

結局、ショパンはへとへとになるまで弾きつづけなければなりませんでしたが、宿屋の おかみさんはケーキとワインを差し出し飲み放題にしてくれ、また、地元の人からもたくさんの 土産品をいただき、馬車の荷台には入りきれないほどの食料品と菓子類が積み込まれました。

音楽好きの駅長はすっかり感動し、みずからショパンを丁重に馬車まで案内し、こう別れを 告げたといいます。「これでもう私は、いつでも安らかに死ねます。ポーランドのヴィルトゥオー ソ、ショパンの演奏を聴かせてもらったのですから」。

ショパンは御者に抱えられて馬車 に戻りましたが、宿の人々は大声をあげ、 手を振っていつまでも見送ってくれたというお話です。

チューリハウの街並み(Schulinによる彫刻)
スレフフ町の公式ホームページ(http://www.sulechow.pl/index.php?id=72&lng=pl&id=0)より

7歳のショパンが母親に送ったお祝いのカード

母ユスティナの命名日を祝っ てショパンが贈った言葉ファクシミリ。1817年6月16日、(ワルシャワ)(縦18センチ、横12セ ンチ、ワルシャワ、フレデリック・ショパン協会蔵)

1817年6月16日のショパンの母ユス ティナの命名日を祝って7歳のショパン書いたカードです。四辺に優雅な打出し模様のある用紙 の上に、ショパンの字で4行に書かれています。

「ママ、どうか僕のお祝いの言葉を受け 取ってください!神様、どうか僕の願いを聞いてください。ママがいつまでも幸福で、元気に長 生きできますように。フリデリック・ショパン」

四行詩の詩型をとり、aabbの韻を踏んで いるといいます。

ショパンは6歳の時に、父ミコ ワイに贈ったカードも残ってます。

いずれも、この年齢の子供が書いたにしては文字がと てもきれいで整っており、韻を踏んだ詩の形式をとった内容も目を見張るものがあります。

ショパンは音楽のみならず、絵の才能もあり、ショパン自身が描いたスケッチが何枚か残って いますし、新聞記事に見立てた家族宛の近況報告からは文才も伺えます。また、物まねがとてもうまく、俳優にスカウト されるくらい演技力があったという話もあります。

さすが、多才なショパン、天才ショパ ン!7歳で作曲するくらいですから、このようなお祝いカードを書くことなどは朝飯前だったのかも知れま せんね!

ショパンの作曲の先生

ユゼフ・エルスネルの肖像
マクシミリヤン・ファヤンス作。リトグラフ。(1850年)

ユゼフ・エルスネル Jzef Elsner(1769-1854)は、ドイツ系ポーランドの作曲家、教育者、音楽著述家、指揮者。

ボ ヘミアの出身で、親は音楽家でしたが、牧師になることを期待されて、最初、修道院の学校で教 育を受けました。1789年には医学を学ぶためにウィーンへ行きましたが、音楽の道に進むために 医学を断念、作曲法をドライリッターに、オルガンをハーニッシュに学びました。

その後、 ブルノやレンベルクといった都市でオペラのオーケストラのヴァイオリニストや指揮者を務め、 99年にはワルシャワに落ち着き、以後25年間ワルシャワ国立オペラ劇場の責任者を務めました。

1818年には初等音楽美術学校校長に就任し、これが21年ワルシャワ音楽院に発展し、同院長 となりました。1826~30年には音楽高等学校校長を務め、これらの 教育活 動 の中で、ショパンをはじめ19世紀前半のポーランドのほとんどすべての作曲家達を教えました。

1802~25年の間、長きにわたりポーランド新聞に多くの評論や記事を寄稿しています。作曲 家としては27作ものオペラをはじめとし、交響曲、ミサ曲、オラトリオ、カンタータ、管弦楽、 声楽曲、ピアノ曲、室内楽、多数のマズルカ、ポロネーズ、クラコヴィアクなどの舞曲など多数 の作品を残し、ポーランド国民音楽の創始者と呼ばれています。

エルスネルは背は高くなく 肥満体、生彩あるまなざし、きわめて温和で善良な性格、リベラルで、学生達の独創的なアイディ アも懐深く受け入れる先生でした。

【ショパンとの関連】

*エルスネル自身が作曲したポ ロネーズやマズルカといった民族音楽を題材にした作品 に、幼いショパンは目を輝かせながら聴き入っていました。

*ショパンは、当時ショパン家 のサロンに出入りしていたエルスネルより、1822年頃から和声の規則や楽曲形式の構造原理を教 えてもらったり、お薦めの文献を紹介されたりしていました。また、エルスネルは1823年に和声 の教科書をショパンに買い与えました。

*1822年、ショパンはエルスネルの指導のもとで、 嬰ト短調『ポロネーズ』を作曲しました。

*1826年にショパンが有名な温泉地ライネルツへ 湯治に行った帰りに、ブレスラウに立ち寄り、エルスネルからの紹介状をもって、その地の有名 な音楽家ヨーゼフ・シュナーベルに会いにいきました。

*1826年9月にショパンはワルシャ ワ音楽院に入学し、週に3回2時間ずつエルスネルから対 位法と作曲のレッスンを受けました。

*ショパンについてエルスネルはこう書いています。 「彼を自由にさせなさい。彼のやり方が普通と違っているとすれば、それは彼の才能が並外れて いるからです。並の原則に無理に従わせる必要がどこにあるでしょう。彼は彼自身の原則に従っ ているのです」

*ショパンは「もし僕がエルスネル先生に学ばなかったら、間違いなくこ れだけのこ とはでき なかったろう。先生は人を教えることを知っておられ、また人に自信を持たせる人だ」と書いて います。

*エルスネルはつね日頃「作曲の勉強では、かくかくすべしという規則を示して はいけない。特に、才能が明らかな生徒に対してはそうすべきでない。規則はあくまで自分で発 見すべきものである。その時々に、自分で自分を乗り越えられるようになるために。まだ見つかっ ていないものを見つけるための方法そのものを身につけるべきなのである。」と言っているよう に、ショパンに対して作曲の手本もスタイルも押し付けることはしませんでした。

*賢明 なエルスネルはショパンの才能はピアノ音楽においてこそ最も十全に発揮されることを見抜いて いたので、作曲科の他の弟子とは違ってショ パンには交 響曲やオラトリオ、あるいはミサ曲などを無理に書かせることはしませんでした。

*1829 年7月にショパンがワルシャワ音楽院を卒業する時に、エルスネルはショパンの卒業成績を「き わめて才能があり、音楽の天才だ」と評価しました。

*1829年7月にショパンが初めてウィ ーンを訪問する際に、エルスネルはウィーンの有名な指揮者フランツ・ラハナーや楽譜出版商の ハスリンガー宛ての紹介状を書いてショパンに持たせました。

*1829年にショパンがウィー ンで演奏会を開いた時、それを聴いた地元の音楽評論家から、「ワルシャワのようなところでこ こまで音楽を身につけたこと自体、不思議でならない」と称賛されました。これに対しショパン は「ジヴニーとエルスネル両先生の手にかかれば 、どんなうすのろでもここまで到達しますよ」と答えました。

*1830年3月17日、ショパン のワルシャワでの第1回公開演奏会ではピアノ協奏曲第2番の楽章の間にエルスネル作曲のオペ ラの序曲『レシェク白王』が挿入され演奏されました。

*1830年11月2日、ショパンがポー ランドを出発する際、「ヴォラの関門」を過ぎたワルシャワの町のはずれでエルスネルが音楽院 の学生たちの合唱隊を指揮し、旅立つショパンに敬意を表してカンタータを歌わせていました。

このときのためにエルスネルが特別に作曲した歌で、ギターの伴奏、男性合唱で歌う送別 のカンタータでした。歌詞は次のようなものでした。「ポーランドの土で培われし者よ/君いず こに行こうとも/願わくは君が才君に誉れもたらさん ことを。/君、 シュプレー川[ベルリン貫流の川]、テベレ川、セーヌ川の岸辺に住もうとも/我らを喜ばせし調 べ、マズルカを、愛すべきクラコヴィヤクを/古き良きポーランドのならわしもて/君が音楽に て常に聴かせんことを。/(合唱)君、国を去ろうとも/君が心我らと共に残らん/君が天才のお ぼえ忘れざらん。/それ故、心の底から我ら言う/君いずこに行こうとも幸あれと。」

* 1830年11月、ショパンが2度目にウィーンに旅立った時の経由地、ブロツワフにはエルスネルの 知り合いが多かったので、ショパンに何通もの紹介状を書いて持たせました。

*エルスネ ルは2度結婚しましたが、2度目の妻は彼の教え子であり、ワルシャワ・オペラの首席ソプラノ 歌手であったカロリナ・ドロズドフスカです。ショ パンは彼女の娘のエミリアが大好きでした。実際、ショパンはエルスネルの家庭では弟子以上の 待遇で迎えられ、エルスネルはこの少年と音楽を語り、お茶を飲みながら何時間も過ごしたと いいます。また、ショパンも決して師のことを忘れず、パリに移住してからもエルスネルの忠告 を求め、常に情愛と尊敬をこめて相対しました。

*1831年、ショパンがパリへ移住する際 に、エルスネルはパリ音楽院教授のジャン=フランソワ・ルシュール宛ての紹介状をショパンに 持たせました。

*ショパンがパリで当時有名だった大ピアニスト、カルクブレンナーから 弟子にしてやると言われたことを知ったエルスネルは、ショパン独自の才能を束縛し、自分の手 中に取り込もうとする醜い欲望であるとカルクブレンナーを非難しました。

*1831年12月 14日にエルスネルに宛てた手紙の中で、ショパンは当時パリ音楽院の大先生、レイハやケルビー ニといった旧世代の代表者たちについて「これらお 偉方は、畏敬の念をもって眺め、その作品からは専ら学ばせていただくだけの、いわば干からび た木偶のようなものですね」と皮肉たっぷりに書いています。