ショパンの作曲の先生

ユゼフ・エルスネルの肖像
マクシミリヤン・ファヤンス作。リトグラフ。(1850年)

ユゼフ・エルスネル Jzef Elsner(1769-1854)は、ドイツ系ポーランドの作曲家、教育者、音楽著述家、指揮者。

ボ ヘミアの出身で、親は音楽家でしたが、牧師になることを期待されて、最初、修道院の学校で教 育を受けました。1789年には医学を学ぶためにウィーンへ行きましたが、音楽の道に進むために 医学を断念、作曲法をドライリッターに、オルガンをハーニッシュに学びました。

その後、 ブルノやレンベルクといった都市でオペラのオーケストラのヴァイオリニストや指揮者を務め、 99年にはワルシャワに落ち着き、以後25年間ワルシャワ国立オペラ劇場の責任者を務めました。

1818年には初等音楽美術学校校長に就任し、これが21年ワルシャワ音楽院に発展し、同院長 となりました。1826~30年には音楽高等学校校長を務め、これらの 教育活 動 の中で、ショパンをはじめ19世紀前半のポーランドのほとんどすべての作曲家達を教えました。

1802~25年の間、長きにわたりポーランド新聞に多くの評論や記事を寄稿しています。作曲 家としては27作ものオペラをはじめとし、交響曲、ミサ曲、オラトリオ、カンタータ、管弦楽、 声楽曲、ピアノ曲、室内楽、多数のマズルカ、ポロネーズ、クラコヴィアクなどの舞曲など多数 の作品を残し、ポーランド国民音楽の創始者と呼ばれています。

エルスネルは背は高くなく 肥満体、生彩あるまなざし、きわめて温和で善良な性格、リベラルで、学生達の独創的なアイディ アも懐深く受け入れる先生でした。

【ショパンとの関連】

*エルスネル自身が作曲したポ ロネーズやマズルカといった民族音楽を題材にした作品 に、幼いショパンは目を輝かせながら聴き入っていました。

*ショパンは、当時ショパン家 のサロンに出入りしていたエルスネルより、1822年頃から和声の規則や楽曲形式の構造原理を教 えてもらったり、お薦めの文献を紹介されたりしていました。また、エルスネルは1823年に和声 の教科書をショパンに買い与えました。

*1822年、ショパンはエルスネルの指導のもとで、 嬰ト短調『ポロネーズ』を作曲しました。

*1826年にショパンが有名な温泉地ライネルツへ 湯治に行った帰りに、ブレスラウに立ち寄り、エルスネルからの紹介状をもって、その地の有名 な音楽家ヨーゼフ・シュナーベルに会いにいきました。

*1826年9月にショパンはワルシャ ワ音楽院に入学し、週に3回2時間ずつエルスネルから対 位法と作曲のレッスンを受けました。

*ショパンについてエルスネルはこう書いています。 「彼を自由にさせなさい。彼のやり方が普通と違っているとすれば、それは彼の才能が並外れて いるからです。並の原則に無理に従わせる必要がどこにあるでしょう。彼は彼自身の原則に従っ ているのです」

*ショパンは「もし僕がエルスネル先生に学ばなかったら、間違いなくこ れだけのこ とはでき なかったろう。先生は人を教えることを知っておられ、また人に自信を持たせる人だ」と書いて います。

*エルスネルはつね日頃「作曲の勉強では、かくかくすべしという規則を示して はいけない。特に、才能が明らかな生徒に対してはそうすべきでない。規則はあくまで自分で発 見すべきものである。その時々に、自分で自分を乗り越えられるようになるために。まだ見つかっ ていないものを見つけるための方法そのものを身につけるべきなのである。」と言っているよう に、ショパンに対して作曲の手本もスタイルも押し付けることはしませんでした。

*賢明 なエルスネルはショパンの才能はピアノ音楽においてこそ最も十全に発揮されることを見抜いて いたので、作曲科の他の弟子とは違ってショ パンには交 響曲やオラトリオ、あるいはミサ曲などを無理に書かせることはしませんでした。

*1829 年7月にショパンがワルシャワ音楽院を卒業する時に、エルスネルはショパンの卒業成績を「き わめて才能があり、音楽の天才だ」と評価しました。

*1829年7月にショパンが初めてウィ ーンを訪問する際に、エルスネルはウィーンの有名な指揮者フランツ・ラハナーや楽譜出版商の ハスリンガー宛ての紹介状を書いてショパンに持たせました。

*1829年にショパンがウィー ンで演奏会を開いた時、それを聴いた地元の音楽評論家から、「ワルシャワのようなところでこ こまで音楽を身につけたこと自体、不思議でならない」と称賛されました。これに対しショパン は「ジヴニーとエルスネル両先生の手にかかれば 、どんなうすのろでもここまで到達しますよ」と答えました。

*1830年3月17日、ショパン のワルシャワでの第1回公開演奏会ではピアノ協奏曲第2番の楽章の間にエルスネル作曲のオペ ラの序曲『レシェク白王』が挿入され演奏されました。

*1830年11月2日、ショパンがポー ランドを出発する際、「ヴォラの関門」を過ぎたワルシャワの町のはずれでエルスネルが音楽院 の学生たちの合唱隊を指揮し、旅立つショパンに敬意を表してカンタータを歌わせていました。

このときのためにエルスネルが特別に作曲した歌で、ギターの伴奏、男性合唱で歌う送別 のカンタータでした。歌詞は次のようなものでした。「ポーランドの土で培われし者よ/君いず こに行こうとも/願わくは君が才君に誉れもたらさん ことを。/君、 シュプレー川[ベルリン貫流の川]、テベレ川、セーヌ川の岸辺に住もうとも/我らを喜ばせし調 べ、マズルカを、愛すべきクラコヴィヤクを/古き良きポーランドのならわしもて/君が音楽に て常に聴かせんことを。/(合唱)君、国を去ろうとも/君が心我らと共に残らん/君が天才のお ぼえ忘れざらん。/それ故、心の底から我ら言う/君いずこに行こうとも幸あれと。」

* 1830年11月、ショパンが2度目にウィーンに旅立った時の経由地、ブロツワフにはエルスネルの 知り合いが多かったので、ショパンに何通もの紹介状を書いて持たせました。

*エルスネ ルは2度結婚しましたが、2度目の妻は彼の教え子であり、ワルシャワ・オペラの首席ソプラノ 歌手であったカロリナ・ドロズドフスカです。ショ パンは彼女の娘のエミリアが大好きでした。実際、ショパンはエルスネルの家庭では弟子以上の 待遇で迎えられ、エルスネルはこの少年と音楽を語り、お茶を飲みながら何時間も過ごしたと いいます。また、ショパンも決して師のことを忘れず、パリに移住してからもエルスネルの忠告 を求め、常に情愛と尊敬をこめて相対しました。

*1831年、ショパンがパリへ移住する際 に、エルスネルはパリ音楽院教授のジャン=フランソワ・ルシュール宛ての紹介状をショパンに 持たせました。

*ショパンがパリで当時有名だった大ピアニスト、カルクブレンナーから 弟子にしてやると言われたことを知ったエルスネルは、ショパン独自の才能を束縛し、自分の手 中に取り込もうとする醜い欲望であるとカルクブレンナーを非難しました。

*1831年12月 14日にエルスネルに宛てた手紙の中で、ショパンは当時パリ音楽院の大先生、レイハやケルビー ニといった旧世代の代表者たちについて「これらお 偉方は、畏敬の念をもって眺め、その作品からは専ら学ばせていただくだけの、いわば干からび た木偶のようなものですね」と皮肉たっぷりに書いています。

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