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ショパンを激怒させたウィーンの有名音楽出版業者

当時ウィーンの代表的な音楽出版社であったハスリンガー社の経営者トビアス・ハスリンガーとショパンのかかわり合いをみてみましょう。

(出典:https://pages.stolaf.edu/music242-spring2014/)

ハスリンガー、トビアス  Haslinger,Tobias  1787-1842

オーストリアの音楽家、音楽出版業者。リンツ大聖堂合唱団員を務めたのち1810年ウィーンに出ていくつかの音楽出版社で働き、作曲科としても知られるようになりました。1815年~26年ジグムント・アントン・シュタイナーの音楽出版社の共同経営社となり、ハスリンガーは出版物の質の向上と事業の飛躍に貢献しました。26年からはハスリンガーが単独経営者となり、社名を自分の名前に改め、世界的にその名を知られる出版社へと成長させました。1830年には王室御用達美術・音楽出版人の称号を得ました。特筆すべき出版は、ベートーヴェンのop.90101,112118,121a、シューベルトのop.7783,8991等の初版出版であり、他に当時のウィーンの主要な作曲家やモーツァルトの作品を出版しました。その後、息子カールCarl(18161868)がトビアスの後を継ぎ、さらにカールの死後1875年まで未亡人によって業務は行われましたが、1875年にベルリンのシュレジンガー社に買収されました。

【ショパンとの関連】

*ショパンは、自作のピアノと管弦楽のための《ラ・チ・ダレム変奏曲 変ロ長調》と《ソナタ ハ短調》を出版してもらおうと、ウィーンに演奏旅行に行く前にハスリンガーに草稿を送りました。(何月かは不明ですが、1829年の7月以前)

*1829年7月にショパンが初めてウィーンを訪問した際に、エルスネルの紹介状を持ってハスリンガーに会いに行きましたが、事前に送っていた曲はまだ印刷されていませんでした。しかし、ハスリンガーは《ラ・チ・ダレム変奏曲》を週間以内に『オデオン叢書』(ハスリンガー編纂による美しい装丁の名曲集)で出版する予定だと話してくれたことが、同年8月8日付、家族宛の手紙の中で述べられています。

*1829年8月12日付、家族宛のショパンの手紙の中で、ハスリンガーがラ・チ・ダレム変奏曲》の印刷を始めたという記載があり、また、同年8月22日付家族宛の手紙の中では、5週間後には出版され、秋には世界中に出回っているはずだとハスリンガーが真顔で約束をしてくれたと記されています。しかし、実際に出版されたのはさらに8ヶ月後の1830年4月のことでした。

ショパンが初めてウィーンを訪問した際に、ハスリンガーはショパンに公開演奏をするように執拗にすすめました。1829年8月8日付、家族宛のショパンの手紙の中で、「ハスリンガーの考えによると、ウィーンの人々が僕の曲を耳にすることができれば、それは曲にとってもよいことで、ただちに新聞が好意的な評を書いてくれることは誰もが請け合う」と書いています。また、同年9月11日付、ティトゥス宛のショパンの手紙によると、「ハスリンガーは、僕は無名だし、僕の曲は難しくて地味だ、だから曲のためにも、できればウィーンで演奏した方がいいという意見だったが、僕自身はまだ公演するつもりはなかったし、2、3週間も弾いていない状態でそんな上等なお客さんたちの前で演奏を披露することは無理だと言って断った。そしてそれきり沙汰やみのはずだった。ところがそこへ、いろいろと立派なバレエを書き、ウィーンの劇場を差配するガレンベルク伯が現れて、ハスリンガーはその伯爵に、僕のことを公開演奏に尻込みする臆病者として紹介したのだ。」と記されています。

ショパンが初めてウィーンを訪問した際に、ハスリンガーはショパンに、チェルニーを紹介すると約束してくれました。実際ショパンはチェルニーとも知り合いになり、すっかり仲良くなって、彼の家で何度も一緒に2台のピアノを弾いたと1829年9月12日付ティトゥス宛の手紙に書いています。

*1830年5月15日付ティトゥス宛のショパンの手紙の中で、その頃ハスリンガー社から出版されたショパンのラ・チ・ダレム変奏曲》の楽譜を持って、ハスリンガーがライプツィヒの国際書籍見本市へ出かけたと書いています。

*1830年11月、ショパン2回目のウィーン訪問の際、ハスリンガーはいたって親切丁重にもてなしてはくれましたが、相変わらず《ソナタ ハ短調》も二つ目の変奏曲《<スイスの少年>の主題による変奏曲 ホ長調》もまだ印刷してくれておらず、ショパンは腹立ち紛れに「そのうち懲らしめてやります」と、同年12月1日付家族宛の手紙で書いています。さらに、同じ手紙の中で、「賢いハスリンガーは、僕を親切に、しかし軽くあしらうことで、僕の曲をタダでせしめようとしているのです。変奏曲[ラ・チ・ダレム変奏曲》のこと]に対して彼が一銭も僕に払っていないことに、クレンゲル[ドイツの作曲家]は驚いていました。もしかすると、ハスリンガーは、僕の曲を低く評価するふりをしてみせれば、僕がそれを真に受け、本当にただでくれてやるとでも思っているのだろうか?だがもうタダの時代は終わったのだ、これからはきちんと払え、悪党めが!」と激怒しています。

この抜け目ない商売人ハスリンガーは、ショパンを田舎から出てきた、名もない新人作曲家と見下していたものの、実際にショパンと会い、彼の演奏を聴いたとたん、この青年が非凡で独創的な演奏スタイルと才能を持った素晴らしいピアニストであることをさとり、またこの曲自体も、あらためて魅力的で斬新な佳作に見えたので、稿料は出せないが、なんとかうまく丸め込んで出版してひと儲けしようと企んでいたようです。

*1831年5月のある日、ショパンはカンドラー[ウィーンの歌手、音楽評論家]と一緒にウィーンの王室宮廷図書館を訪れ、当時最大の古楽譜の手稿コレクションを見に行きました。そこにショパンの名前が付いた箱入りの草稿写本を見つけ、まさか自分の写本があるとは思わなかったショパンは、シャンペン[Champein:フランスのオペラ作曲家]の名前を書き間違えているのではなかと思いましたが、よく見たらまさしくショパンの筆跡で書かれたラ・チ・ダレム変奏曲》で、ハスリンガーが図書館に寄贈したものだと悟り、とても驚いたことを1831年5月14日付家族宛の手紙に書いています。

ハスリンガーは、この曲を出版した後、その手稿譜を1829年に王室宮廷図書館(現オーストリア国立図書館)に納めていました。この手稿譜は現在も同図書館の音楽部門に所蔵されています。ショパンの手稿譜が公共の図書館に寄贈された初の例とされています。

*1841年にハスリンガーは再びショパンの作品出版の意向を示し、校正の依頼を申し出ましたが、今度はショパンが返事をしませんでした。ショパンは、ハスリンガーから無下な扱いを受けたことを忘れておらず、1841年9月12日付のフォンタナ宛の手紙で「ハスリンガーは愚かな奴だ。彼が今印刷したがっている、いや、もう印刷してしまって、今出版したいと言ってきているのは、12年前ウィーンで彼にただでやったもの[《ソナタ ハ短調》と<スイスの少年>の主題による変奏曲 ホ長調]だ。どうすればそんな奴が好きになれると思う?返事は書かないよ。もし書くとしたら君にも読んでもらえるよう封をせず君に送るが、強気に出るつもりでいる。」と述べています。

ハスリンガーの魂胆を見抜いたショパンは、以後自作の曲をハスリンガー社から出版することは決してありませんでした。結局ハスリンガーがこの2曲を出版できたのは、ショパンの死後、1851年でした。

ショパンお気に入りのスイーツ

ピェルニク

(http://panikucharka.pl/より転載)

天文学史上最も重要な再発見とされる地動説を唱えた天文学者として知られるコペルニクスですが、彼はポーランドのトルンという町の出身です。このトルンには中世の頃から作られているピェルニク(pierniki)という有名な伝統菓子があります。

1824年の夏休みにここを訪れたショパンは初めてピェルニクを食べ、相当気に入ったようで、友人宛ての手紙の中で絶賛しています。

ピェルニクとは、様々な香辛料やはちみつ、しょうがなどを混ぜた生地にジャムなどをはさんで焼き上げ、表面にチョコレートや砂糖で飾りを施したお菓子です。

生地に練り込まれる香辛料やデコレーションの材料の種類が実に豊富で、いろいろな種類があります。

香辛料としては、蜂蜜・シナモン・ジンジャー・クローブ・カルダモン・ナツメグ・アニス・ラベンダーなど、デコレーション素材としては、チョコレート、各種ドライフルーツやナッツ類があります。

お菓子の形態も様々で、クッキーのようなものから切り分けて食べるパウンドケーキタイプのものまであります。またマーマレードなどのジャムやナッツのペーストなどを生地の間に挟んであるタイプもあります。

さらに興味深いのが、食べない飾り専用のピェルニクもあることです。固く焼き上げた少し大きめのハート型ピェルニクに、メッセージやキャラクターを描いて贈ったり、インテリア・オブジェとして飾られたりもします。

ピェルニクは、香辛料をたくさん使い、固く非常に乾いた状態に焼き上げられる特徴から、腐りにくいので、昔は航海用の保存食としても重宝されていたそうです。

トルンにはピェルニク博物館があり、館内で実際にピェルニク作りを体験できます。

【ショパンとの関連】

*1824年と翌25年の高等中学時代の夏休みに、ショパンは、親友ドミニク・ジェヴァノフスキの実家があったシャファルニアという田舎町で過ごしています。1825年の2度目の滞在中にショパンは、コペルニクスの生家があるトルンにも足を伸ばしています。

同年9月にショパンが親友ヤン・マトゥシンスキに宛てて書いた手紙の中で、トルン銘菓のピェルニクを大絶賛しています。この手紙で、ショパンはピェルニクのことを「ピェルニク・トルンスキ(pierniki toruńskie)」と書いていますが、これは「トルン風ピェルニク」といった意味です。

その部分を要約すると、「トルンを訪れて実にいろいろな物を見た。町の要塞設備、砂を移動させる有名な機械、1231年に建立されたゴチック造りの教会、傾いた塔、有名な市庁舎など、町のあらゆる場所から、あらゆるディテールも含めてすべて見た中で、一番印象に残ったのはピェルニクだった。他のすべてをもってしてもピェルニクには及ばない」

さらにショパンは、気に入ったピェルニクを小包で家族に送ったとも書いています。

*ピェルニクの最大手の製造会社であるKopernik製菓は、ショパンにちなみ、「スケルツォ」と名付けた特別なハート型のピェルニクを作っています。その菓子缶にはワジェンキ公園のショパンの銅像がデザインされています。

http://www.lemarto.pl/より転載)

ショパンが弾いた自作曲以外の曲 ~フェルディナント・リース作曲《ピアノ協奏曲》~

リース、フェルディナント Ries,Ferdinand  1784-1838

(出典:Wikipedia)

ドイツのピアノ奏者、作曲家。リース家はドイツの音楽一族として有名で、父親はヴァイオリン奏者のフランツ・アントン・リース、祖父、おば、兄弟なども音楽家です。チェロをB.ロンベルクに学んだ後、1801~05年ウィーンでベートーヴェンからピアノを学ぶ一方、アルブレヒツベルガーに作曲理論を学びました。さらに、ロシア、スウェーデンなどで研鑽を積んだのち、ヨーロッパ各地を演奏旅行しました。その後、1813年にロンドンに渡りフィルハーモニー協会の演奏会で指揮者、ピアノ奏者、作曲家として成功を収めました。この間、ベートーヴェンの作品のロンドン普及にも貢献しています。1824年に引退し、故郷ボンに戻ったのち、1829年からはフランクフルトに定住、同地のセシ リア協会を指揮したり、アーヘン市の管弦楽団およびジングアカデミー、ニーダーライン音楽祭を指揮しました。

【ショパンとの関連】

*1823年2月24日、13歳のショパンはワルシャワにおいて、ヤヴレル主催の慈善協会晩餐会でリース作曲の《ピアノ協奏曲》を演奏しました。この時のショパンの演奏について当時の女性向け新聞『婦人時報(クリエル・ドラ・プウチ・ピェンクネイ)』は「これほどの若さで、曲の恐るべき難所を克服し、やすやすとかつ正確に、情感と比類ない精密さをもって、かの美しいアダージョを演奏し得たヴィルトゥオーソの演奏は、言い換えれば、素晴らしい才能によってこの年齢でこれほどまでの完成度に達した演奏は、未だかつてわが首都ワルシャワでは耳にしたことがないと言っても過言ではない」と大絶賛しています。リース作曲のピアノ協奏曲は第1番から第8番までと、小協奏曲の全9 曲ありますが、ショパンが何番を弾いたかは不明です。当時、リースの曲は人気で、《ピアノ協奏曲第2番》は9歳のフランツ・リストが公開演奏会で弾いたという記録もあります。

*1824年8月10日にショパンが夏期休暇先のシャファルニアから両親に宛てた手紙の中で、リース作曲《四手によるピアノ・フォルテのためのムーアの旋律の変奏曲》の楽譜をブジェジナの店で買って持って来てほしいと、父ミコワイに依頼しています。

*1825年9月29日付、ビャウォブウォツキ宛のショパンの手紙の中で、フンメル、リース、カルクブレンナーが、当時のショパンの教材であったことを語っています。

*1829年10月20日付、ティトゥス宛のショパンの手紙の中で、ケスレル[ポーランド在住のドイツ人ピアニスト]の自宅で毎週金曜日にちょっとした演奏会をやっていて、リース作曲の《ピアノ協奏曲第3番 嬰ハ短調》が演奏されたという記述がありますが、ピアノパートを弾いたのがショパン自身なのか、ケスレルなのかは不明です。

ショパンの二人目のピアノ教師

ショパンの最初のピアノ教師とては、ヴォイチェフ・ジヴニーが有名ですが、上達の速いショパンは、1822年(ショパン12歳の頃)にはジヴニーよりも上手に弾けるようになり、ジヴニーは何も教えることがなくなり、のレッスンは終了しました。そして、ジヴニーにかわり、次にショパンにピアノを教えたのは、当時一流のコンサート・ピアニストであったヴュルフェルです。

今日は、このヴュルフェルにスポットを当てて、ショパンとの関連を見ていきましょう。

ヴュルフェル、ヴィルヘルム・ヴァツワフ Würfel,Wilhelm Waclaw 1790-1832

ヴュルフェルは、ボヘミアのプラナニに生まれ、ヴァーツラフ・ヤン・トマーシェクに師事したピアニスト、オルガン奏者、作曲家、指揮者です。1815年から1824年までワルシャワ音楽院の教授も務めていました。ショパン家のサロンの常連でもあり、不定期ながらショパンにピアノを教えました。ショパンはヴュルフェルから「ブリランテ」と呼ばれる現代的で華麗な奏法と様式を学び、フンメル、フィールド、リースなどの当時のヴィルトゥオーソのレパートリーに接しました。またショパンが高等学校在学中には彼からオルガンの手ほどきも受けています。

その後、ヴュルフェルはウィーンのケルントナートール歌劇場の指揮者に招かれ、1826年からウィーンに移り住み、1832年にウィーンで没しました。

【ショパンとの関連】

*1829年7月、ショパンの1回目のウィーン訪問の際に、当時ウィーンの歌劇場の指揮者をしていたヴュルフェルはあたたかくショパン迎え、町を案内し、またショパンを説き伏せ、ウィーンでのデビュー演奏会をやらせた中心人物となりました。ヴュルフェルは、広告の張り紙からプログラム作り、打ち合わせ、リハーサルに至るまで、諸々の演奏会の準備をたった4日間でやりとげてくれました。

*1829年8月8日付家族宛のショパンの手紙の中で「ヴュルフェルさんは今日、ガレンベルク伯爵、指揮者のザイフリート氏、それに会う人毎に、”私が演奏会を開くよう勧めている青年です”と僕を紹介していました」と書いています。

1829年8月に行われたウィーンでのショパンのコンサートのプログラム

*1829年8月11日、ヴュルフェルが指揮するオーケストラをバックに、ショパンは『ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ変奏曲』や、ポーランド民謡に基づく即興曲を演奏し、ウィーンデビューを果たしました。さらに、ヴュルフェルはショパンのために、ウィーンでの2回目の演奏会のお膳立てもしてくれました。また、ウィーンからショパンが帰国する際にはたくさんの紹介状を書いて、プラハとドレスデンでも音楽会を開くようにと、取り計らってくれました。このプラハへの紹介状にはショパンのことを「彼はワルシャワ宮廷、ワルシャワの大衆の寵児です」と書いてありました。

*1830年のショパン2回目のウィーン訪問の際にもヴュルフェルはショパンを大歓迎し、再びウィーンで公演してはどうかと提案し、何を弾くべきかということまで助言してくれましたが、残念ながらヴュルフェルは当時結核を病んでおり、床に臥したままだったため、ショパンの力にはなれませんでした。

ショパン8歳の時、初めての公開演奏で弾いた曲

1818年2月24日、ショパン8歳の時、ラジヴィウ宮殿内の劇場で開かれた「貧しい人たちのための」慈善演奏会に出演し、イーロヴェツ作曲のピアノ協奏曲第5番を演奏しました。ショパンにとって生まれて初めての公開演奏会でしたが大変な評判となり、以後ワルシャワの貴族社会から注目されるようになりました。

この演奏会でショパンは、母親であるユスティナの作ってくれた大きなレースの襟を付け、黒いビロードの服を着て出演しました。しかし、あいにく病気だったユスティナは聴きに行くことができなかったために、帰宅したショパンに演奏会の様子をたずねたところ、聴衆の反応について「ママが下さったこのイギリス製の襟の評判がよかったよ」と答え、人々が爆笑したとの逸話があります。

今日は、ショパンが初めての公開演奏会で演奏した曲の作曲者、アダルベルト・イーロヴェツについてお話ししましょう

イーロヴェツ、アダルベルト(ギロヴェツ、ギロヴェッツ) Gyrowetz,Adalbert 1763-1850

アダルベルト・イーロヴェツは、英語読みではギロヴェツ、ギロヴェッツとも呼ばれるボヘミア生まれの作曲家、指揮者です。生地の聖歌隊の指揮者であった父にピアノ、ヴァイオリン、作曲を、プラハで哲学と法律を学びました。語学の才能にも恵まれ、ドイツ語、フランス語、イタリア語、英語、チェコ語を話し、ついにはラテン語も学んだそうです。

1784~85年ウィーンへ音楽の研鑽のため旅行しした際には、モーツァルトと交流し、モーツァルトの開いた演奏会でイーロヴェツの交響曲が演奏されたりもしました。また、ハイドンの崇拝者であり、実際にハイドンの補佐役を果たしたこともあります。作曲の際もハイドンの様式を手本としたため、イーロヴェツの手稿譜はしばしば誤ってハイドン作曲として出版されたこともあるそうです。

1793年以来ウィーンに定住し、1804~31の間ウィーン宮廷劇場の作曲家兼指揮者に就任しました。ベートーヴェンとも親交があり、ベートーヴェンの葬儀では棺の運び手の1人を務めました。

作品の大部分はウィーンのサロンの聴衆向けに書かれたものであり、その結果つまらない作品となることもありましたが、バランスのよさ、オーケストラを扱う技術の質の高さを見せています。多作家で、オペラ・オペラッタ約30曲、交響曲約60曲、弦楽四重奏曲約60曲、ピアノソナタ約40曲、ヴァイオリンソナタ約40曲、声楽曲約100曲など、出版作品も数多くあります。

現在ではほとんど忘れ去られた作曲家となっていますが、1820年代まで当時のウィーンで非常に人気があり、ベートーヴェンと並び称されるほどの存在でした。ショパンの初の公開演奏でイーロヴェツの曲が選ばれたのも、当時の人気からすると不思議ではありません。イーロヴェツは当時としては驚くほど長生きで、87歳まで生きましたが、あまりに長生きしすぎたため、流行の変化とともに人気はうすれていってしまいました。

【ショパンとの関連】

*1818年2月24日ショパンの初公開演奏会において、イーロヴェツの古典主義的作品で子供には決して弾きやすくないピアノ協奏曲第5番が演奏されました。

*1829年ショパンの1回目のウィーン訪問の時に開いた2回目の演奏会に、当時66歳になるイーロヴェツが足を運んでくれ、多くの聴衆に混じってショパンの演奏を聴き、惜しみない拍手を送って大声でブラボーを叫んでくれたそうです。

*ショパンは1829年9月12日付ティトゥス宛手紙で、ウィーンでの出来事について次のように報告しました。「たった1日で、マイゼダー、イーロヴェツ、ラハナー、クロイツァー、シュパンツィヒ、メルク、レヴィ、要するにウィーンの大音楽家達全部と知り合いになった」

	

ショパン初めての外国旅行(ベルリン紀行)

ベルリンのオペラ劇場
作者不詳。銅版画。(1846-57年)

ワルシャワ国立図書館図版部所蔵

ショパン家のサロンの常連客だったワルシャワ大学動物学教授フェリクス・ヤロツキが、国際会議が催されるベルリンへ招待され、以前から外国に行きたがっていたショパンも同行することになりました。

この際のショパンの旅費はアントニ・ラジヴィウ公という、ポズナン大公国の総督が援助してくれました。

ベルリンは当時プロシア(プロイセン)王国という強大国の首都でした。

ショパンにとっ て、今回の旅行の目的は、「本物の音楽」に触れるということでしたが、最初は、学者達の晩餐会につき合わされて少々退屈していました。しかし、後半は大好きなオペラ観劇にほとんど時間を費やすことができ、この旅行の後、ショパンは「芸術の都として名高いウィーンやパリなどの外国へ行って自分の芸術をさらに磨きたい」と強く思うようになったようです。

 【ショパンとの関連】

*1828年9月にベルリンで開かれた国際博物学会(国際自然科学者会議)に出席するヤロツキ教授に同行して、ショパンは初めてベルリンを訪問しました。ショパン一行は9月14日(日曜日)の午後3時頃に駅馬車でベルリンに到着し、ホテル”クロンプリンツ”に宿を取り、約2週間滞在の後、9月28 日に帰途につきました。

*1828年9月14日、ベルリンに到着したその日に、ヤロツキ教授はショパンをリヒテンシュタイン[ヤロツキのベルリンの知人で教授、国際自然科学会議の秘書]の所へ連れて行き、そこで世界的に有名な自然地理学者のアレクサンダー・フォン・フンボルト博士に会いました。

*1828年9月15日に、ショパンはヤロツキとともに学者たちの大晩餐会に出席し、風変わりで印象的な学者のスケッチを何枚か描いたと、1828年9月16日付、家族宛の手紙に書いています。この素描画は現存しています。

*1828年9月16日付、家族宛の手紙に「リヒテンシュタインさんはわたしを音楽界の指導的な方々に会わせてやると言って下さっています。彼がただ一 つ残念がっていられることは、わたしたちがもう1日早くくればよかったということです。その日に彼のお嬢さんがオーケストラ伴奏で演奏をしたのです。」と書いています。

リヒテンシュタインは、以前にウェーバーと親しかったこともあり、また娘がピアニストということもあって、ベルリンの音楽界のことはみんな知っていました。ショパンは彼に演奏を聴いてもらい、彼から、多くの聴衆に聴かせ、当地の音楽家たちにも紹介しようと約束されましたが、会議の準備で多忙のため、結局はたされることはありませんでした。

*1828年9月16日の午前中に、ショパンはフリードリッヒ通りの端にあるキスティングのピアノフォルテ製造所へ見学に行きましたが、仕上がった楽器 が一つもなく、長い散歩が無駄になったこと、宿泊したホテルには良いグランド・ピアノがあって、毎日そのピアノを弾いていることを、1828年9月16日付、家族宛の手紙に書いています。

*1828年9月16日付の家族宛ての手紙に「午前中は、動物学の会館の13の部屋をまわってあるくかわりに、シュレジンガー[ドイツの有名な楽譜出版社]の店に行こうと思っています。シュレジンガーのライブラリーには、あらゆる時代や国の最も重要な音楽作品が含まれていて、もちろん、他のどんなコレクションよりも僕にとって興味あるものなので、この店にはともかく行ってみます。」と書いています。

*ベルリンについてのショパンの印象は、「あまりにも大きい都会」「住んでいるド イツ人の数にくらべて広い。今の人口の倍はたやすく住めると思う」「とりたてて美しいというわけではないが、すべてきっちりして清潔で整頓されていることが目立つ。一言でいえば、計画的で将来を考えていることが何事にもうかがえる」などと1828年9月16日付、家族宛の手紙に書いています。

*ベルリンの女性についてのショパンの印象は「マリルスキ君[ショパンの年長の友人]がベルリンの女性達はきれいだなどと言うならば、彼は審美眼なんか全くもっていません。彼女たちはたしかにちゃんと身を装っていますが、どれも似たような鹿の革の人形にすばらしいモスリン織の布をくしゃくしゃにして着せた、というような様子でおおいにがっかりです。」と1828年9月16日付、家族宛の手紙 に書いています。

*1828年9月18日、ショパンは、王立図書館を訪問し、ポーランドの英雄であるコチシウシュコの直筆の手紙を見て感動したことを、1828年9月20日付、家族宛のショパンの手紙の中で述べています。

*1828年9月20日付、家族宛のショパンの手紙の中で、ヘンデルのオラトリオ《聖セシリアの祝日のための頌歌(しょうか)》や、スポンティーニの 《フェルナンド・コルテッツ》、チマローザの《秘密の結婚》、オンスローの《行商人》などのオペラを連日観賞したと書いています。その中でも、ヘンデルのオラトリオには、すっかり心を奪われ、この曲は、崇高な音楽に対する僕の理想に最も近いものであると述べています。さらに、翌日にウェーバーの《魔弾の射手》も観に行く予定でとても楽しみにしているとも書いています。

*ショパンがオペラ観劇に行った劇場の中で、当時の有名な作曲家であるスポンティーニ、ツェルター、メンデルスゾーンを見かけましたが、自己紹介する勇気がなかったので、彼らの誰とも話さなかったことを、1828年9月20日付、家族宛のショパンの手紙に書いています。

 *1828年9月27日ベル リン滞在の最終日、家族に宛てた手紙によると、「ここで見るべきものはすべて見ました」とあります。また、23日には科学者達との2回目の晩餐会があり、非常に賑やかで楽しいものだったようです。26日に見たオペラ《妨げられた奉献祭》でプリマが歌った半音階が独特の魅力にあふれていましたが、ドイツ語の発音がフランス語的で意味が違って聞こえることなど鋭く指摘しています。

ロッシーニとショパン

ジョアキーノ・アントーニオ・ロッシーニの肖像。作者不詳の肖像画の写真。(19世紀後半)

ワルシャワ博物館所蔵

ロッシーニ、ジョアキーノ (1792~1868年)の本名はジョアキーノ・アントーニオ・ロッシーニ Gioachino Antonio Rossini。イタリア作曲家美食家としても知られています。『セビリアの理髪師』や『ウィリアム・テル』などのオペラ作曲家として最もよく知られていますが、宗教曲室内楽曲をなども手がけています。彼の作品は当時の大衆やショパンなど同時代の音楽家に非常に人気がありました。

【ショパンとの関連】

*オペラが大好きなショパンは、ワルシャワでロッシーニ、ドニゼッティ、ベッリーニ、モーツァルトなどのオペラ上演に必ず足を運んでいました。その中でもショパンが最も愛したオペラ作曲家はロッシーニでした。ショパンが1931年秋までにワルシャワ、ウィーン、プラハなどの都市で観劇したロッシーニのオペラは、『アルジェのイタリア女』『イタリアのトルコ人』『セビリャの理髪師』『泥棒かささぎ』『ラ・チェネレントラ』『オテロ』『湖の女』『マオメット2世』『セミラーミデ』『コリントの包囲』『モイーズとファラオン』『ギヨーム・テル』の12作品に及びます。

*1824年、ショパンがまだ高等学校に在籍中に、ロッシーニの『ラ・チェネレントラ』の主題を用いた『フルートとピアノのための変奏曲』(ホ長調)を作曲したとされていましたが、現在では偽作の可能性が高いということになっています。

*1825年10月30日のヤン・ビャウォブウォツキ宛のショパンの手紙の中で、ロッシーニのオペラ『セビリャの理髪師』を観に行ったこと、このオペラが大好きなことを書いています。

*1825年11月のヤン・ビャウォブウォツキ宛のショパンの手紙の中で、「『セビリャの理髪師』の主題による『ポロネーズ』(変ロ短調)を作曲した。友人達は大変喜んでくれている。明日石版印刷屋にひきわたすつもりでいる。」と書いていますが、この作品の楽譜は現存していません。

*1826年5月15日のヤン・ビャウォブウォツキ宛のショパンの手紙の中で、ディアベッリによるロッシーニ作品のピアノ編曲を含む曲集『エウテルベ(Euterpes)』を楽譜商から購入したと書いています。

*1826年6月、ショパンはロッシーニの『泥棒かささぎ』を観劇した後、『ポロネーズ』(変ロ短調)を作曲しましたが、その自筆譜のトリオ冒頭に「さようなら!(泥棒かささぎのアリアによる)」と書き、このオペラの第1幕ジャンネットのカヴァティーナ(この胸の中においで)の旋律が使われています。

*ショパンは1828年の夏じゅうサンニキ村にあるプルシャク家で休暇を過ごしていましたが、大好きな『セビリャの理髪師』を観劇するためにワルシャワに戻りました。しかし、歌手の出来の悪さに落胆したことを同年9月9日付ティトゥス・ヴォイチェホフスキ宛ての手紙に書いています。

*1829年、ショパン1回目のウィーン訪問中にロッシーニのオペラ『ラ・チェネレントラ』を堪能しました。

*1829年、1回目のウィーン訪問からの帰路、テプリッツに立ち寄った際、ショパンはオーストリア皇室の出席するクラリー公邸での夜会で、ロッシーニの『モーゼ』から主題をとり即興演奏を行い、大成功を収めました。

*1831年7月、ショパン2回目のウィーン訪問中にロッシーニの『コリントの包囲』を観劇し、同年7月16日付家族宛ての手紙の中で絶賛しています。

*1831年12月にショパンはパリに到着して真っ先にロッシーニを紹介してもらい大喜びをしています。

*パリに移住後もショパンは度々ロッシーニのオペラを観劇し、パリの声楽家たちの演じる『アルジェのイタリア女』『セビリャの理髪師』『ラ・チェネレントラ』『オテロ』『ギヨーム・テル』などを絶賛しています。

* 1849年10月17日ショパンが息を引き取る数時間前、ショパンはポトツカ夫人にロッシーニとベッリーニの歌曲を求め、彼女はそれをピアノを弾いてすすり泣きながら歌い、ショパンはすすり泣きながら聴いたと言われていますが、実際に何の曲を歌ったかは諸説あり、定まった見解はありません。

ショパンのデビューコンサートが開かれた劇場

クラシンスキ宮殿とワルシャワ国民劇場(右)
F・ディートリヒ作。彩色銅板画。1832年。
ワルシャワ博物館所蔵
 
ワルシャワ国民劇場は、1779年にワルシャワのクラシンスキ広場に建設され、1833年までさまざまな音楽の拠点となりました。1790年には改築して1200人の観衆を収容できたといわれています。
 
最初のポーランド・オペラの初演が行われたのも、ショパンがデビューコンサートを開いたのもこの劇場でした。
 
第二次世界大戦後、ワルシャワの多くの建物が復元されましたが、この旧「国民劇場」は復興されなかったもののひとつです。
 
この劇場はクラシンスキ広場に、現在美術大学となっているものとは別の、もうひとつのクラシンスキ宮殿と向かい合って建っていました。この銅版画によると、クラシンスキ宮殿よりやや小さい位だったと思われます。現在この劇場跡には最高裁判所が建っています。

【ショパンとの関連】
*1830年3月17日、ショパンはこの劇場で正式にデビューしました。
曲目は《ピアノ協奏曲 ヘ短調》Op.21と《ポーランド民謡による幻想曲 イ長調》Op.13などでした。
 
*この劇場での2回目のショパンのコンサートは1830年の3月22日に開催されました。曲目は《ロンド・ア・ラ・クラコヴィヤク ヘ長調》Op.14及び、《町にはおかしなならわしが》と《厳しい世間》の主題による即興演奏でした。
 
*1830年7月8日には、国民劇場の女流歌手B・マイェフスカの記念コンサートに出演し、ショパンは自作の《ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ変奏曲 変ロ長調》Op.2を披露しました。
 
*ショパンがポーランドを発つ数週間前の1830年10月11日、この劇場で告別演奏会を催し、《ピアノ協奏曲 ホ短調》Op.11と《ポーランド民謡による幻想曲 イ長調》Op.13を演奏しました

16歳のショパンの肖像

16歳のショパンの肖像エリザ・ジヴィウヴナ作。スケッチ。ファクシミリ。ワルシャワ博物館所蔵。

エリザ・ジヴィウヴナ  Eliza Radziwillownaは、アントニ・ラジヴィウ大公の上の娘です。

アントニ・ラジヴィウは、ポーランドの大公で、アマチュアながら玄人はだしの作曲家でもあり、チェロ奏者でもありました。

ヴィルノの領主の子に生まれ、ポーランド分割後の1815年ウィーン会議の結果、プロイセンに編入されたポズナン大公国の総督になりました。

ラジヴィウは著名な芸術のパトロンという面も持っていました。彼がベルリン、ポズナン、アントニンに所有していた宮殿では、ヨーロッパ各地から著名な音楽家たちが集まってくる国際的な音楽サロンでもありました。パガニーニ、ゲーテ、ベートーヴェンなどとともに、ショパンも客として迎えられています。

ベートーヴェンやメンデルスゾーンは自作曲を彼に献呈しています。ショパンも《ピアノ三重奏曲》Op.8をラジヴィウに献呈しています。
 

【ショパンとの関連】

*ショパンが1829年にラジヴィウ大公家に滞在した折、大公の二人の令嬢エリザとヴァンダの存在によりますます愉快なものになったことが、次のようなショパンの手紙から読みとれます。 「きわめて優しく上品、音楽的で心こまやかな(中略)二人のイヴ[楽園のアダムとイヴに擬す]がここにはいて、おかげで天国にいるようだ」

*エリザは音楽好きで、ショパンに対して《ポロネーズ ヘ短調》を弾いてくれるよう1日に何度も懇願しました。彼女はこの曲の変イ長調の〈トリオ〉が何よりお気に入りだったそうです。また、エリザはお気に召したこの曲の楽譜がほしいとせがみ、ショパンは親友のティトゥスに、一番早い郵便で送ってもらうように、念を入れて同じ手紙の中で二度も頼んでいます。

*エリザは絵も得意でショパンがラジヴィウ大公家に滞在中にショパンの肖像画を2枚描き残しています。この絵についてショパンは18291114日付ティトゥス宛の手紙で「僕も2度ほど画帳に登場させてもらったけど、人が言うにはなかなかどうして似ているらしい」と書いています。また、同じ手紙で「君は僕の肖像画を欲しがっていたね。もし、エリザ姫から1枚盗めたら君に送ろう」とも書いています。

ショパン少年時代の最良の友人

ヤン・ビャウォブウォツキ宛のショパンの手紙

18251224日、ジェラゾヴァ・ヴォーラにて。複製。オリジナルは第二次世界大戦中に、ワルシャワ古文書館から紛失。

ヤン・ビャウォブウォツキ Jan Bialoblocki1805-1827)は、ショパンの少年時代(1825年以降)の最良の親友で、ショパンより5歳年上の青年です。愛称はヤス、ヤシュ、ヤッシャ。

彼はショパンのあらゆる関心事、願望について告白することのできる最良の話し相手でした。ショパン家の寄宿生でもあり、ワルシャワ中学校では、後にショパンの姉ルドヴィカの夫となるイェンジェイェヴィチと同窓でした。

ヤンが脚に患いを得たままワルシャワを離れ、故郷ソコウォーヴォに帰ってからというもの、ショパンは身辺上の出来事を細大もらさず彼に報告して自分の気持ちを吐露し、自分が書いたマズルカや気に入ったミツキェヴィチの詩や、ウェーバーのオペラ『魔弾の射手』のアリアを送ったりしながら、矢のように手紙を書き送りました。

そして彼からの返事を心待ちにし、相手が自分ほど筆まめでなかったり、自分のように何でも打ち明けてくれないということで怒ったりもしました。

ビャウォブウォツキの病気は当時不治の病とされた骨の結核と推測されていますが、当時のショパンにはこの病気の重さが充分にはわかっていませんでした。

ショパンのビャウォブウォツキ宛の手紙の文面から彼が非常に礼儀正しい音楽好きな美少年であったことが伺えます。長く患った関節結核の悪化で22年の短い生涯を閉じました。

ビャウォブウォツキは少年時代のショパンにとって最良の友人でしたが、彼の死後はティトゥス・ヴォイチェホフスキがそれに代わる役割をはたすことになります。

 【ショパンとの関連】

*早逝したポーランドのピアニスト、アレクサンデル・レムビーリンスキーの演奏を聴いたショパンは、18251030日付、ビャウォブウォツキ宛手紙に「僕がいままで聴いた誰よりもうまくピアノを弾いた。今度のようにほんとうに完璧な演奏を一度も聴いたことのない僕たちのようなものに、これがどんな喜びだったか君は想像できるだろう。彼の速い、なめらかな、ふくらみのある演奏についてもっとくわしく書きたいのだが、1つだけ言っておくよ。彼の左手は右手と同じ強さに発達しているのだ。1人の人間で右と左と同じなんていうことは、まれに見ることだ。彼のすばらしい才能について書くには1ページ以上必要だが」と絶賛しています。

18251030日のビャウォブウォツキ宛のショパンの手紙の中で、ロッシーニのオペラ『セビリャの理髪師』を観に行ったこと、このオペラが大好きなことを書いています。

182511月のビャウォブウォツキ宛のショパンの手紙の中で、「『セビリャの理髪師』の主題による『ポロネーズ』(変ロ短調)を作曲した。友人達は大変喜んでくれている。明日石版印刷屋にひきわたすつもりでいる。」と書いていますが、この作品の楽譜は現存していません。

182511月にビャウォブウォツキに宛てた手紙に「ルドヴィカ[ショパンの姉]がすばらしいマズルカを書いた。ワルシャワがここ久しくこんな音楽で踊ったことのないようなものだ。彼女の最高峰だ、いやこの種のものの比べるものなきだ。はつらつとしていて、魅力的だ。一言でいえば、理想的なダンス曲で、しかも誇張なしに絶品である。君が帰って来たら弾いてあげるよ」と書いています。しかし、この作品の楽譜は確認されていません。

*ショパンは高校の最終学年の時、学校のミサでのオルガニストに任命され、得意になって182511月のビャウォブウォツキ宛の手紙で次のようにユーモアを交えて自慢しています。「僕は高校のオルガニストになったぞ(中略)どうじゃ、如何でござるかな?拙者もなかなかやるであろう!学校中で教区司祭様の次に偉いお方だぞ!」

1826515日付、ビャウォブウォツキ宛手紙に「レムビーリンスキー[早逝したポーランドのピアニスト]によく会う。23日前に会いに来てくれてぼくは大喜びだ」と書いています。

18266月のビャウォブウォツキ宛手紙に「レムビーリンスキーのワルツから数曲を送った。これは君に喜んでもらえるにちがいない。そのうちの23曲は、はじめはむずかしいかも知れないが、君の硬い指を動かし始めるにはちょうどよい。(中略)これらは君にふさわしいものだというのがわかると思う。君と同じく立派な曲だよ」と書いています。

*ビャウォブウォツキ宛のショパンの手紙の中で、フンメル、リース、カルクブレンナーが、当時のショパンの教材であったことを語っています。

182610月2日付ビャウォブウォツキ宛のショパンの手紙の中で「ブロジンスキ、ベントコフスキなどの講義や音楽に関係のある授業には出ている。」と書いています。

ブロジンスキは、ポーランドの詩人、批評家、文芸理論家でワルシャワ大学教授。ショパン家のサロンの常連の1人でした。

*病気療養のためビイスキュピックにいるビャウォブウォツキに、ショパンが手紙を出す際に、宛先住所を知らなかったので、ワルシャワにいたヤンの妹(または姉)、コンスタンスに手紙を託しました。

*ショパンの182718日付、ビャウォブウォツキ宛の手紙の中で、ポーランドの女流ピアニストであるマリア・シマノフスカの演奏会に行く予定だと、書いています。

*ショパンは182718日付のビャウォブウォツキ宛の手紙で、「ぼくの《マズルカ》[2つのマズルカ(ト長調)(変ロ長調)のうちの1(作品番号なし)1826年作で同年出版]を送る。君の知っている方だ。もう1つの方は今でなくあとで送る。こうしないと君に一時にあんまりたくさんの楽しみができてしまうからだ。これらの《マズルカ》はもう出版されている。」と書いています。

*ショパンは1827年3月14日付のヤン・ビャウォブウォツキ宛の手紙で、ヤンがもう死んでしまったという噂のことに触れ「君は今生きているのか?それとも生きていないのか?」と尋ねています。この時ヤンはまだ死んではいませんでしたが、それから間もなく死んでしまいました。ビャウォブウォツキの死(1827年末)はショパンの一番下の妹エミリアの死(1827410日)と同じ年でした。

1826515日付、ヤン・ビャウォブウォツキ宛手紙に、ポーランドの貴族で政治家のザモイスキのところに行って、一晩じゅうドゥウゴシュの発明したピアノとオルガンが合体したエオロパンタレオンという楽器について讃えあったと書いています。

*ショパンはヤン・ビャウォブウォツキから楽譜を送ってほしいと依頼されて、父ミコワイに頼んでグリュクスベルグという楽譜商に行って来てもらいました。ショパンの1826515日付、ヤン・ビャウォブウォツキ宛手紙によると、この楽譜商は1ヶ月前でないと予約は受け付けないとか、カタログは1つもないのでどういう楽譜を選んでよいのかわからない。一度に楽譜は23冊しか貸し出さない。貸出料は月1ターレルもする。などと批判的に書いています。

*ショパンの1826515日付、ヤン・ビャウォブウォツキ宛手紙に「23週間のうちに『魔弾の射手』が上演されるだろうと、ひどく噂になっている。これは大騒ぎになると思うよ。もちろん何べんも上演されるだろうが、まさにわれわれの歌劇団がウェーバーの有名作品を上演すること自体が大事件だ。しかし、ウェーバーが『魔弾の射手』で意図したねらいを考えると、あのドイツ的な主題、変わったロマンティシズム、特に凝った和音は、ロッシーニの軽いメロディーにならされたワルシャワの聴衆を考えると称賛をもって始まるだろうが、これは心の底からそう思っているのではなく、むしろ目利きのふりをしてのことにちがいない。というのはウェーバーはどこでも高尚ということになっているから。」と書いています。
*ヤン・ビャウォブウォツキ宛の手紙で、彼のために『魔弾の射手』のアリアを2曲買ったと書いています。