ショパンを激怒させたウィーンの有名音楽出版業者

当時ウィーンの代表的な音楽出版社であったハスリンガー社の経営者トビアス・ハスリンガーとショパンのかかわり合いをみてみましょう。

(出典:https://pages.stolaf.edu/music242-spring2014/)

ハスリンガー、トビアス  Haslinger,Tobias  1787-1842

オーストリアの音楽家、音楽出版業者。リンツ大聖堂合唱団員を務めたのち1810年ウィーンに出ていくつかの音楽出版社で働き、作曲科としても知られるようになりました。1815年~26年ジグムント・アントン・シュタイナーの音楽出版社の共同経営社となり、ハスリンガーは出版物の質の向上と事業の飛躍に貢献しました。26年からはハスリンガーが単独経営者となり、社名を自分の名前に改め、世界的にその名を知られる出版社へと成長させました。1830年には王室御用達美術・音楽出版人の称号を得ました。特筆すべき出版は、ベートーヴェンのop.90101,112118,121a、シューベルトのop.7783,8991等の初版出版であり、他に当時のウィーンの主要な作曲家やモーツァルトの作品を出版しました。その後、息子カールCarl(18161868)がトビアスの後を継ぎ、さらにカールの死後1875年まで未亡人によって業務は行われましたが、1875年にベルリンのシュレジンガー社に買収されました。

【ショパンとの関連】

*ショパンは、自作のピアノと管弦楽のための《ラ・チ・ダレム変奏曲 変ロ長調》と《ソナタ ハ短調》を出版してもらおうと、ウィーンに演奏旅行に行く前にハスリンガーに草稿を送りました。(何月かは不明ですが、1829年の7月以前)

*1829年7月にショパンが初めてウィーンを訪問した際に、エルスネルの紹介状を持ってハスリンガーに会いに行きましたが、事前に送っていた曲はまだ印刷されていませんでした。しかし、ハスリンガーは《ラ・チ・ダレム変奏曲》を週間以内に『オデオン叢書』(ハスリンガー編纂による美しい装丁の名曲集)で出版する予定だと話してくれたことが、同年8月8日付、家族宛の手紙の中で述べられています。

*1829年8月12日付、家族宛のショパンの手紙の中で、ハスリンガーがラ・チ・ダレム変奏曲》の印刷を始めたという記載があり、また、同年8月22日付家族宛の手紙の中では、5週間後には出版され、秋には世界中に出回っているはずだとハスリンガーが真顔で約束をしてくれたと記されています。しかし、実際に出版されたのはさらに8ヶ月後の1830年4月のことでした。

ショパンが初めてウィーンを訪問した際に、ハスリンガーはショパンに公開演奏をするように執拗にすすめました。1829年8月8日付、家族宛のショパンの手紙の中で、「ハスリンガーの考えによると、ウィーンの人々が僕の曲を耳にすることができれば、それは曲にとってもよいことで、ただちに新聞が好意的な評を書いてくれることは誰もが請け合う」と書いています。また、同年9月11日付、ティトゥス宛のショパンの手紙によると、「ハスリンガーは、僕は無名だし、僕の曲は難しくて地味だ、だから曲のためにも、できればウィーンで演奏した方がいいという意見だったが、僕自身はまだ公演するつもりはなかったし、2、3週間も弾いていない状態でそんな上等なお客さんたちの前で演奏を披露することは無理だと言って断った。そしてそれきり沙汰やみのはずだった。ところがそこへ、いろいろと立派なバレエを書き、ウィーンの劇場を差配するガレンベルク伯が現れて、ハスリンガーはその伯爵に、僕のことを公開演奏に尻込みする臆病者として紹介したのだ。」と記されています。

ショパンが初めてウィーンを訪問した際に、ハスリンガーはショパンに、チェルニーを紹介すると約束してくれました。実際ショパンはチェルニーとも知り合いになり、すっかり仲良くなって、彼の家で何度も一緒に2台のピアノを弾いたと1829年9月12日付ティトゥス宛の手紙に書いています。

*1830年5月15日付ティトゥス宛のショパンの手紙の中で、その頃ハスリンガー社から出版されたショパンのラ・チ・ダレム変奏曲》の楽譜を持って、ハスリンガーがライプツィヒの国際書籍見本市へ出かけたと書いています。

*1830年11月、ショパン2回目のウィーン訪問の際、ハスリンガーはいたって親切丁重にもてなしてはくれましたが、相変わらず《ソナタ ハ短調》も二つ目の変奏曲《<スイスの少年>の主題による変奏曲 ホ長調》もまだ印刷してくれておらず、ショパンは腹立ち紛れに「そのうち懲らしめてやります」と、同年12月1日付家族宛の手紙で書いています。さらに、同じ手紙の中で、「賢いハスリンガーは、僕を親切に、しかし軽くあしらうことで、僕の曲をタダでせしめようとしているのです。変奏曲[ラ・チ・ダレム変奏曲》のこと]に対して彼が一銭も僕に払っていないことに、クレンゲル[ドイツの作曲家]は驚いていました。もしかすると、ハスリンガーは、僕の曲を低く評価するふりをしてみせれば、僕がそれを真に受け、本当にただでくれてやるとでも思っているのだろうか?だがもうタダの時代は終わったのだ、これからはきちんと払え、悪党めが!」と激怒しています。

この抜け目ない商売人ハスリンガーは、ショパンを田舎から出てきた、名もない新人作曲家と見下していたものの、実際にショパンと会い、彼の演奏を聴いたとたん、この青年が非凡で独創的な演奏スタイルと才能を持った素晴らしいピアニストであることをさとり、またこの曲自体も、あらためて魅力的で斬新な佳作に見えたので、稿料は出せないが、なんとかうまく丸め込んで出版してひと儲けしようと企んでいたようです。

*1831年5月のある日、ショパンはカンドラー[ウィーンの歌手、音楽評論家]と一緒にウィーンの王室宮廷図書館を訪れ、当時最大の古楽譜の手稿コレクションを見に行きました。そこにショパンの名前が付いた箱入りの草稿写本を見つけ、まさか自分の写本があるとは思わなかったショパンは、シャンペン[Champein:フランスのオペラ作曲家]の名前を書き間違えているのではなかと思いましたが、よく見たらまさしくショパンの筆跡で書かれたラ・チ・ダレム変奏曲》で、ハスリンガーが図書館に寄贈したものだと悟り、とても驚いたことを1831年5月14日付家族宛の手紙に書いています。

ハスリンガーは、この曲を出版した後、その手稿譜を1829年に王室宮廷図書館(現オーストリア国立図書館)に納めていました。この手稿譜は現在も同図書館の音楽部門に所蔵されています。ショパンの手稿譜が公共の図書館に寄贈された初の例とされています。

*1841年にハスリンガーは再びショパンの作品出版の意向を示し、校正の依頼を申し出ましたが、今度はショパンが返事をしませんでした。ショパンは、ハスリンガーから無下な扱いを受けたことを忘れておらず、1841年9月12日付のフォンタナ宛の手紙で「ハスリンガーは愚かな奴だ。彼が今印刷したがっている、いや、もう印刷してしまって、今出版したいと言ってきているのは、12年前ウィーンで彼にただでやったもの[《ソナタ ハ短調》と<スイスの少年>の主題による変奏曲 ホ長調]だ。どうすればそんな奴が好きになれると思う?返事は書かないよ。もし書くとしたら君にも読んでもらえるよう封をせず君に送るが、強気に出るつもりでいる。」と述べています。

ハスリンガーの魂胆を見抜いたショパンは、以後自作の曲をハスリンガー社から出版することは決してありませんでした。結局ハスリンガーがこの2曲を出版できたのは、ショパンの死後、1851年でした。

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