ショパンが弾いた自作曲以外の曲 ~フェルディナント・リース作曲《ピアノ協奏曲》~

リース、フェルディナント Ries,Ferdinand  1784-1838

(出典:Wikipedia)

ドイツのピアノ奏者、作曲家。リース家はドイツの音楽一族として有名で、父親はヴァイオリン奏者のフランツ・アントン・リース、祖父、おば、兄弟なども音楽家です。チェロをB.ロンベルクに学んだ後、1801~05年ウィーンでベートーヴェンからピアノを学ぶ一方、アルブレヒツベルガーに作曲理論を学びました。さらに、ロシア、スウェーデンなどで研鑽を積んだのち、ヨーロッパ各地を演奏旅行しました。その後、1813年にロンドンに渡りフィルハーモニー協会の演奏会で指揮者、ピアノ奏者、作曲家として成功を収めました。この間、ベートーヴェンの作品のロンドン普及にも貢献しています。1824年に引退し、故郷ボンに戻ったのち、1829年からはフランクフルトに定住、同地のセシ リア協会を指揮したり、アーヘン市の管弦楽団およびジングアカデミー、ニーダーライン音楽祭を指揮しました。

【ショパンとの関連】

*1823年2月24日、13歳のショパンはワルシャワにおいて、ヤヴレル主催の慈善協会晩餐会でリース作曲の《ピアノ協奏曲》を演奏しました。この時のショパンの演奏について当時の女性向け新聞『婦人時報(クリエル・ドラ・プウチ・ピェンクネイ)』は「これほどの若さで、曲の恐るべき難所を克服し、やすやすとかつ正確に、情感と比類ない精密さをもって、かの美しいアダージョを演奏し得たヴィルトゥオーソの演奏は、言い換えれば、素晴らしい才能によってこの年齢でこれほどまでの完成度に達した演奏は、未だかつてわが首都ワルシャワでは耳にしたことがないと言っても過言ではない」と大絶賛しています。リース作曲のピアノ協奏曲は第1番から第8番までと、小協奏曲の全9 曲ありますが、ショパンが何番を弾いたかは不明です。当時、リースの曲は人気で、《ピアノ協奏曲第2番》は9歳のフランツ・リストが公開演奏会で弾いたという記録もあります。

*1824年8月10日にショパンが夏期休暇先のシャファルニアから両親に宛てた手紙の中で、リース作曲《四手によるピアノ・フォルテのためのムーアの旋律の変奏曲》の楽譜をブジェジナの店で買って持って来てほしいと、父ミコワイに依頼しています。

*1825年9月29日付、ビャウォブウォツキ宛のショパンの手紙の中で、フンメル、リース、カルクブレンナーが、当時のショパンの教材であったことを語っています。

*1829年10月20日付、ティトゥス宛のショパンの手紙の中で、ケスレル[ポーランド在住のドイツ人ピアニスト]の自宅で毎週金曜日にちょっとした演奏会をやっていて、リース作曲の《ピアノ協奏曲第3番 嬰ハ短調》が演奏されたという記述がありますが、ピアノパートを弾いたのがショパン自身なのか、ケスレルなのかは不明です。

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