ショパン初めての外国旅行(ベルリン紀行)

ベルリンのオペラ劇場
作者不詳。銅版画。(1846-57年)

ワルシャワ国立図書館図版部所蔵

ショパン家のサロンの常連客だったワルシャワ大学動物学教授フェリクス・ヤロツキが、国際会議が催されるベルリンへ招待され、以前から外国に行きたがっていたショパンも同行することになりました。

この際のショパンの旅費はアントニ・ラジヴィウ公という、ポズナン大公国の総督が援助してくれました。

ベルリンは当時プロシア(プロイセン)王国という強大国の首都でした。

ショパンにとっ て、今回の旅行の目的は、「本物の音楽」に触れるということでしたが、最初は、学者達の晩餐会につき合わされて少々退屈していました。しかし、後半は大好きなオペラ観劇にほとんど時間を費やすことができ、この旅行の後、ショパンは「芸術の都として名高いウィーンやパリなどの外国へ行って自分の芸術をさらに磨きたい」と強く思うようになったようです。

 【ショパンとの関連】

*1828年9月にベルリンで開かれた国際博物学会(国際自然科学者会議)に出席するヤロツキ教授に同行して、ショパンは初めてベルリンを訪問しました。ショパン一行は9月14日(日曜日)の午後3時頃に駅馬車でベルリンに到着し、ホテル”クロンプリンツ”に宿を取り、約2週間滞在の後、9月28 日に帰途につきました。

*1828年9月14日、ベルリンに到着したその日に、ヤロツキ教授はショパンをリヒテンシュタイン[ヤロツキのベルリンの知人で教授、国際自然科学会議の秘書]の所へ連れて行き、そこで世界的に有名な自然地理学者のアレクサンダー・フォン・フンボルト博士に会いました。

*1828年9月15日に、ショパンはヤロツキとともに学者たちの大晩餐会に出席し、風変わりで印象的な学者のスケッチを何枚か描いたと、1828年9月16日付、家族宛の手紙に書いています。この素描画は現存しています。

*1828年9月16日付、家族宛の手紙に「リヒテンシュタインさんはわたしを音楽界の指導的な方々に会わせてやると言って下さっています。彼がただ一 つ残念がっていられることは、わたしたちがもう1日早くくればよかったということです。その日に彼のお嬢さんがオーケストラ伴奏で演奏をしたのです。」と書いています。

リヒテンシュタインは、以前にウェーバーと親しかったこともあり、また娘がピアニストということもあって、ベルリンの音楽界のことはみんな知っていました。ショパンは彼に演奏を聴いてもらい、彼から、多くの聴衆に聴かせ、当地の音楽家たちにも紹介しようと約束されましたが、会議の準備で多忙のため、結局はたされることはありませんでした。

*1828年9月16日の午前中に、ショパンはフリードリッヒ通りの端にあるキスティングのピアノフォルテ製造所へ見学に行きましたが、仕上がった楽器 が一つもなく、長い散歩が無駄になったこと、宿泊したホテルには良いグランド・ピアノがあって、毎日そのピアノを弾いていることを、1828年9月16日付、家族宛の手紙に書いています。

*1828年9月16日付の家族宛ての手紙に「午前中は、動物学の会館の13の部屋をまわってあるくかわりに、シュレジンガー[ドイツの有名な楽譜出版社]の店に行こうと思っています。シュレジンガーのライブラリーには、あらゆる時代や国の最も重要な音楽作品が含まれていて、もちろん、他のどんなコレクションよりも僕にとって興味あるものなので、この店にはともかく行ってみます。」と書いています。

*ベルリンについてのショパンの印象は、「あまりにも大きい都会」「住んでいるド イツ人の数にくらべて広い。今の人口の倍はたやすく住めると思う」「とりたてて美しいというわけではないが、すべてきっちりして清潔で整頓されていることが目立つ。一言でいえば、計画的で将来を考えていることが何事にもうかがえる」などと1828年9月16日付、家族宛の手紙に書いています。

*ベルリンの女性についてのショパンの印象は「マリルスキ君[ショパンの年長の友人]がベルリンの女性達はきれいだなどと言うならば、彼は審美眼なんか全くもっていません。彼女たちはたしかにちゃんと身を装っていますが、どれも似たような鹿の革の人形にすばらしいモスリン織の布をくしゃくしゃにして着せた、というような様子でおおいにがっかりです。」と1828年9月16日付、家族宛の手紙 に書いています。

*1828年9月18日、ショパンは、王立図書館を訪問し、ポーランドの英雄であるコチシウシュコの直筆の手紙を見て感動したことを、1828年9月20日付、家族宛のショパンの手紙の中で述べています。

*1828年9月20日付、家族宛のショパンの手紙の中で、ヘンデルのオラトリオ《聖セシリアの祝日のための頌歌(しょうか)》や、スポンティーニの 《フェルナンド・コルテッツ》、チマローザの《秘密の結婚》、オンスローの《行商人》などのオペラを連日観賞したと書いています。その中でも、ヘンデルのオラトリオには、すっかり心を奪われ、この曲は、崇高な音楽に対する僕の理想に最も近いものであると述べています。さらに、翌日にウェーバーの《魔弾の射手》も観に行く予定でとても楽しみにしているとも書いています。

*ショパンがオペラ観劇に行った劇場の中で、当時の有名な作曲家であるスポンティーニ、ツェルター、メンデルスゾーンを見かけましたが、自己紹介する勇気がなかったので、彼らの誰とも話さなかったことを、1828年9月20日付、家族宛のショパンの手紙に書いています。

 *1828年9月27日ベル リン滞在の最終日、家族に宛てた手紙によると、「ここで見るべきものはすべて見ました」とあります。また、23日には科学者達との2回目の晩餐会があり、非常に賑やかで楽しいものだったようです。26日に見たオペラ《妨げられた奉献祭》でプリマが歌った半音階が独特の魅力にあふれていましたが、ドイツ語の発音がフランス語的で意味が違って聞こえることなど鋭く指摘しています。

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